先頃、新元号「令和」の発表があった。
いよいよ改元も近づいた。しかし今回の改元も、昭和54年6月の国会での「元号法」の成立があればこそ(公布・施行は同月12日)。その事実を改めて銘記したい。占領下、GHQの圧力によって皇室典範から「元号」の規定が削除された。その結果、元号の法的根拠が曖昧になった。典範の規定は無くなっても、明治元年9月8日に一世一元制を定めた「行政官布告」が有効なので、法的根拠はあるという立場もあった。例えば昭和21年12月の臨時帝国議会では、金森徳次郎国務大臣が「現実の制度としては、行政官布告があり、それをもって既に目的を達している」と答弁していた(12月6日、衆議院皇室典範案第1読会)。学説としても美濃部達吉博士が同じ立場だった。「別に法律を以て定められない限りは、明治元年以来の一世一元の制(明治元・9・8布告)は其(そ)の儘(まま)維持せられて居る」と(『日本国憲法原論』)。しかし一方、行政官布告無効説もあった。何より内閣法制局がその立場だった。「いわば事実たる慣習として昭和という年号が用いられている」(昭和36年2月16日、高辻正己法制局次長の答弁)、「現在の昭和という元号は、法律上の基礎はなくて、事実としての慣習として現在用いられておる…現在の陛下(昭和天皇)が御在世中にかぎるという認識を同時に含んでいる…したがいまして、陛下に万一のことがございましたら、昭和という元号がその瞬間をもって消える、言いかえれば、空白の時代が始まる」(昭和50年3月18日、角田礼次郎法制局第1部長)従って、もし元号法が成立していないまま、昭和天皇の崩御(ほうぎょ)を迎えていれば、「大化」から始まった我が国の元号も、「昭和」で終止符を打たれていた可能性が高い。私自身も当時、大学生として元号法制化運動の末端に僅かながら関わった経験を持つが、改元を来月に控え、国民の熱意を背景に元号法が成立した事実の意義を、
改めて確認しておきたい。